阿波の神

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Awa Ancient History

仏教は佛教か?

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神道」カテゴリーで何故「仏教」なのか? と思われるでしょうが、ここでは仏教の説明ではなく「日本人と神道の宗教観」を説明するために、仏教の宗教観を例に取ります。もちろん、タイトルにある「仏教」と「佛教」は、新字・旧字の違いだけなのですが、「現在の日本仏教」と「釈迦が説いたオリジナルの佛教」の違いを語るイメージとして使っています。

よく、日本人は無宗教だとか、宗教が嫌いだと言われます。しかし、それは多くの日本人が特定の宗教に縛られないからであり、実際には、生涯に渡ってかなり宗教的な思考をし行動に移します。その自覚がないだけです。たとえば、有名なところでは「言霊」があります。誰に教育されたわけでもないのに、殆どの日本人は「人が発した言葉には、その内容を実現してしまう霊力がある」と「無意識に」信じています。結婚式で、離婚をはじめ家庭の不幸に関わる言葉を発してはいけないとか、受験生に不合格を連想させる言葉を掛けてはいけないという「縁起でもないことを言うな」的なマナーじみた態度は、誰もが迷信と自覚しながらも、ある程度信じていることです。実際にそのような言葉を発したならば、当事者は真剣に怒るし、またその態度を見て不思議に思う日本人はいません。

 

日本人の「無自覚な宗教観」といえば、最大のものが「祖霊祭祀」に関わるものだと思います。「祖霊信仰」は決して世界に不変のものではありません。それどころか、日本人が、それを「仏教的観念」だと思いこんでいる祖霊信仰自体、もともとの佛教にはないものばかりです。

 日本人の雑談レベルの宗教的な会話を聞いていると、「今度生まれ変わったらどうなりたい」とか「前世ではこうだったに違いない」というような話と、「亡くなった両親や祖父母が見ている・そばにいてくれている」という話がよく出てきます。

この矛盾をほとんどの人は自覚していません。前者は「輪廻転生」で本来の佛教の死生観です。人は死ぬと49日間の「中陰」期間を経て、次の世界へ転生します。つまり、後者の会話のように「そばにはいない」のです。

自分も生まれ変わりの途中であるはずなので、お盆のたびに前世に帰ったり、来世の自分が戻ってきたりしていなければおかしいわけですが、誰もそんな経験はしていないはずです。

宗派によっては、お盆のときに戻ってくる家族や先祖は「成仏」しているのだ。つまり、次の世界へ転生したのではなく「極楽」「浄土」に生まれ変わっているから時々戻ってこれるのだ、と解釈している人も多いのでしょう。

しかし、自分を含め今この世に生きている人々はみな解脱に失敗した者たちで、自分たちが見送ったり代々墓参りしてきたご先祖はみな、例外なく極楽へ征くことに成功した人達、というかなり強引な論理で思考していることになります。

 

先祖の魂が戻ってくる、という「お盆」自体、元々の佛教にはなかったものです。これは、元々各地にあった祖霊信仰と佛教が結びついてできた行事で、宗教の定義の中心に死生観があるとすれば、これはもはや仏教とは呼べないほどの質的変更なのです。

「各地」というのは、まず佛教が中国に入った後、間違いなく「儒教」の影響を受けて変貌したということと、その中国佛教が日本へ入ったときにまた、日本の祖霊信仰が結びついた、ということです。強烈な拒絶反応がありながらも佛教が受け入れられた理由の核心は、神道との「祖霊信仰の同一性」だったといえます。

 

「神と人」との関わりだけを説く宗教には「死者と人」の関係を繋ぐ祀りなどありません。人が死後もなお生者とつながりを持つ宗教観のほうが少数派といえます。では何故、日本人の宗教観は中国佛教が入る前から祖霊信仰だったのか? ほとんどの人は同じ東アジアの偶然だと考えるでしょう。私は、仏教伝来の何世紀も前に、すでに日本人は儒教の影響を受けていた、と考えています。

はっきり言えば、原初の神道は、日本古来の宗教が、伝来した儒教の影響を受けて形作られたハイブリッド宗教です。

 

仏教といえば、映画やドラマでよく見るシーンに、登場人物がお墓や仏壇の遺影や位牌に向かって話しかける、というものがあります。 実はお墓や墓参り、位牌なども全て儒教由来で、仏教には本来なかったものです。

いったい何故、こんなことを日本人が行うのかといえば、これらを全て「依代」と見なしているからです。

依代(よりしろ)とは「神霊が依りつく対象物」のことで、上の例で言えば(儒教上の)「位牌」がまさにこれに当たります。ご存知のように、日本では、山や岩や大木が神の依代とされることもあります。

 

日本人は、写真や生前身につけていたもの、大事にしていたものなどにも故人の霊が宿っているかのように感じ大切に扱います。その中でも代表的なものが「骨」です。

海外戦死者の遺骨問題や、また様々な事件・事故・災害のときにも「遺骨を持ち帰る」ことを何より大事に考えます。骨を自宅に返し、墓に入れて、遺族・子孫が祀ることが特段大事なことなのです。骨を依代と考えない宗教観ではこんなにも遺骨に執着しません。インドでも、死者は既に転生済みなので「抜け殻でしか無い遺体」は焼いて全て川に流していました。

 

この「骨を依代とする」観念も儒教から来ています。孔子の出現よりもはるか昔、出現した頃の文字(漢字の原型)の解読から、元は先祖の髑髏(しゃれこうべ)を依代として祭壇に置き、供え物をして祀っていたことが分かっています。この骸骨が後の位牌に変化します。

このことからも分かるように、依代とは本来「祭り・祀り」のために設置するものです。何の祭りかといえば「招魂儀礼」です。子孫が先祖や故人の霊を呼び寄せ接触を持つのです。これが後に「お盆」に結びつき、仏壇に話しかける遺族の姿になるのです。

 

儒教では人間は「魂魄」(こんぱく)で形成されており、この魂(こん)と魄(はく)の分離が「死」であると考えます。人の死後、「魂は天へ昇り、魄は地へ帰る」とされ、その後は、魂を「神」(しん)、魄を「鬼」(き)とも呼びます。

「魂」(こん)は「肝」(かん)と結びつき、肝とはその中にある「心」(しん)のことでもあり、心(しん)が神(しん)となります。

魂の偏である「云」(うん)は、雲(うん)と同じで形のないもの、旁の「鬼」は、頭にまだ少し毛が残った白骨死体の象形文字です。

魄の偏である「白」(はく)は、骨のことで、そのまま白骨死体を意味します。

また、「神・鬼」に関しては、気が動く状態を表す「伸」(しん)と「神」(しん)が、魄が「帰」(き)する状態と「鬼」(き)が結びついたとも云われています。

※このように、初期の漢字は、宗教文字に限らず、字形が違っても発音の同じ字は「同義」または「原義に関連がある」ものが大半です。

 

 「魂魄を呼び戻す」のが「招魂儀礼」で、魂を呼ぶために祭壇に香を焚き、魄を呼ぶため地に酒を撒きます。

 

この招魂儀礼が、いわゆる邪馬台国卑弥呼が行ったとされる

「鬼道」(三国志

「神鬼道」(後漢書)です。

中国正史や記紀を見れば分かるように、占いに関しては、古代の日本宗教では「卜占」が中心でしたが(中国でも同じ)、その後「託宣」に変化します。

 

世界一般的な「神」の概念は、中国では「天」に近く、中国での「神」は上に書いたように(天と人の間に存する)死後の人の姿です。

日本では、観念上この両者の「神」が一体となり、優れた人物が、その死後「神」となり、良くも悪くも現世に様々な影響を及ぼす、と考えるようになった、その経緯をここに見ることができます。