阿波の神

阿波の神

Awa Ancient History

伊比良咩神

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阿波の神、第一回は、伊比良咩神(いひらめのかみ)をご紹介します。

神社は「伊比良咩神社」(いひらめのかみのやしろ)。

先に解説した「式外社」の「国史見在社」に当たります。国史初見は、『日本三代実録貞観14年11月29日乙未条(872)

授、丹波国従四位下出雲神従四位上従五位下阿当護神従五位上正六位上奄我神従五位下
阿波国正六位上伊比良咩神。船尽比咩神並従五位下

珍しく、この時代から「比咩神」ではなく「咩神」表記だったことがわかります。(脱字でなければ)
つまり、姫神ではなく、女神、と強調した祭祀者の意図が感じられます。「伊比良之女神社」(いひらのめかみのやしろ)なのかもしれません。

御祭神は「阿比良比咩(あひらひめ)命

阿比良比売」は『古事記』の表記で、『日本書紀』では「吾平津媛」(あひらつひめ)と記されます。

初代神武天皇の御后です。

カテゴリー「神社と神道」に書きましたが、最初期の神社は御祭神の子孫が創建するものです。
逆を言えば、血縁もない赤の他人が何を持って子孫を差し置いて先人を神として祀れるというのでしょう。
崇神天皇の物語にあるように、それ以前の神祀りは祭祀者の居宅地内に設けられた祖廟で行うものでした。
祭政一致の祭りごとの基盤を整え、所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)と称された崇神天皇が「神社祭祀」という形態を生み出したのかもしれません。

 

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この女神の祭祀には注視するべき点が二つあります。
注視点「その壱」は、何故、この神社が阿波に鎮座するのか?、ということです。

記紀の通説解釈に従うならば、阿比良比売は日向か薩摩で祀られていなければおかしいはずです。
姫は、天皇即位(東征)前の伊波礼毘古命の妃だからです。
または、即位後、倭に移住した姫の一族が祭祀を始めたのならば、大和に神社が在るのが当然です。
仮に、元々これらの地に在った神を阿波に分祀したとしても、元社は必ずそこに残ります。

この神社は「日本一社」です。つまり、元から、この阿波国板野郡で祭祀が始められたのです。
よって、九世紀に朝廷から神階を授かっているのであり、元社があるならば、当然そちらが授階するでしょう。神武天皇の生い立ち、東征、建国には一切関わりないはずの四国に、何故、こんな神社が在るのでしょうか?

それでも唯一、強引に通説に合わせて考えるとすれば、皇統は大后・伊須気余理比売との子が継いでゆきますから、阿比良比売一族の子孫(たとえば岐須美美命の子孫)が阿波に移住し祭祀を始めたという可能性だけが残ります。

 


注視点「その弐」は、「比良比売」と「比良比売」、発音の違いです。

第一音の「ア」と「イ」が「異音同義」であるということは、既に『道は阿波より始まる』にて説明され、例えば「伊和大神」とは「阿波大神」であるとの指摘が為されています。

ここで引用された仙覚律師の『萬葉集註釈』の一文です。

① 天竺には「阿」字を発語の詞とす。我が朝には「伊」字を発語の詞とするなり。

② 伊は発語の詞なり。 
  梵語には「阿」字を以って発語の詞と為し、和語には「伊」字を以って発語の詞と為す。

※【万葉集註釈】. 鎌倉中期の万葉集の注釈書。10巻。仙覚著。文永6年(1269)成立。
  万葉集の本格的な注釈書として最初のもの。仙覚抄。

 

仙覚は、万葉集を掘り下げる研究の過程でこの事に気づき、理解を深めるために、わざわざ記したものと思われます。

古代史解釈に当てはめるときは「第一音のみがアとイの違いで、以下が同じ発音の神名・人名・地名は、指し示す実体が同じ(あるいは元をたどれば同じ)」と考えてみることです。それにより、今までは霧に霞んで見えなかった史実が徐々に姿を表します。

 

つまり、阿波国の「イひらひめ」は「アひらひめ」とも呼ばれた、あるいは後世そう呼ばれた、ということです。

古事記「神武記」には

坐日向時、娶阿多小椅君妹、名阿比良比売

とあります。阿比良比売は「阿多」之「小椅君」の「妹」(古代の妹は妻や近親女性のこと)です。日本書紀では

長而娶、日向国吾田邑、吾平津媛、為妃

です。

阿多之(アたの)小椅君の近親女性である、阿比良比売アひらひめ)は、元の音では、(イたの)(イひらひめ)であったのです。

伊比良咩神社の鎮座地は、阿波国「板野(イたの)郡」です。


阿多之小椅君(あたのをばしのきみ)に関しては、『神宮雑例集』(じんぐうぞうれいしゅう)、『皇字沙汰文』(こうのじさたぶみ)等に所載される『大同本紀』逸文に、以下の命名記があります。

 

又、皇御孫(すめみまの)命、度相神主等の先祖・天村雲命を召して、詔りたまわく

食国(おすくに)の水は未熟にて荒水(あらみず)に在りけり。 また神財(かむたから)、毛比(もひ)、二の物忌あり。故、御祖命(みおやのみこと)の御許(みもと)に参上りて申せ」と、詔りて、登らせ奉りき。

具(つぶさ)に由を申す時、御祖命詔りたまわく、

「雑(くさぐさ)に仕へ奉らむ政(まつりごと)は行い下して在れども、水取の政は遺(のこ)りて在り。 何れの神をか下し奉らんと思いめす間に、勇をして参上(まいのぼ)り来たる」

と、詔りて、

天忍石(あめのおしわ)の長井の水を取り持ち下り参り、八盛りに盛りて奉れ。その遺(のこ)りは、天忍水と云い、食国の水の於(うえ)に灌(そそ)ぎ和(あえ)て、御伴に天降り仕え奉る神等八十氏の諸人にも、その水を飲しめよ」と、詔りたまわく。

神財及び玉毛比等を授けられ給い参り下りて、献(たてまつ)る時、皇御孫命詔りたまわく「何れの道よりぞ参り上りしか」と、問い給(たま)う。

「申さく。大橋は皇太神、皇御孫命の天降りますを恐(かしこ)み、後の小橋よりなも参上りし」と、申せし時、皇御孫命詔りたまわく、

「後にも恐(かしこ)み仕へまつる事ぞ」と、詔りて、天村雲命天二登命(あめのふたのぼりのみこと)、後小橋命(のちのおばしのみこと)と云う三名を負い給いき。

 

上記のように、天村雲命は、伊勢豊受大神宮伊勢神宮外宮)の大神主度会氏の祖神であり、その『豊受大神宮禰宜補任(ぶにん))次第』にも、

天孫降臨の際、葦原の中國の水荒くして未だ熟せず飲料に不適なる故、勅命により天上に使し、天照大神の命を受け天忍石の長井の水を持ち帰り、天孫に上(たてまつ)った。
これにより、天孫邇邇芸命)より「二上(登)命」(あめのふたのぼりのみこと)、「後小椅命」(のちのおばしのみこと)の名を賜った、

と、ほぼ同様の記述があります。 ※参考『諸祭神名総覧』

 

 


日本書紀』にみえる同一人物「吾田君小橋」については「其の火闌降命(ほのすそりのみこと)は、即ち吾田君小橋等が本祖(もとつおや)也」とあります。


紀の別記は「火酢芹命」(ほすせりのみこと)、古事記では「火須勢理命」(ほすせりのみこと)ですが、紀に記される火闌降命の事績は『古事記』では火照命(海幸彦)のものとなっています。

つまり、兄弟で争った末、王位を継承した火遠理命(山幸彦)の孫である神武天皇に、王位を譲った火照命(海幸彦)の血を引く阿比良比売が嫁いだわけです。

 

※イメージ図(スマホでは崩れます)

邇邇芸命火遠理命(山幸彦) → 鵜葺草葺不合命  → 神武天皇
    |
     → 火照命海幸彦)→ 阿多之小椅君(天村雲命)→ 阿比良比売 


ちなみに、私はメインブログ「空と風」の「鳥の一族」において、火遠理命の実体は「大穴牟遅命」、火照命の実体は兄の一人「天村雲命」、父である邇邇芸命の実体は「須佐之男命」であると書きました。

記紀の記述を当てはめると矛盾が生じることが分かると思います。
しかし、これは記紀編纂時の混乱が生んだ誤解でしょう。編纂時代から見ても、海幸山幸の話は何世紀も昔の話です。
その伝承を初めて文字に起こすのです。海幸彦と天村雲命の「血の近さ」と「阿比良比売が天村雲命の妹」であるという情報を何とか強引にねじ込んだと見えます。
それが特異な「本祖」という表現に現れています。

また「妹」を「同世代または一世代後」と解釈すると上の系図のように考えることになります。
しかし、古代の「妹」は二世代離れる可能性もあるのです。当時は一夫多妻制だからです。
20歳のときに初婚で生まれた子 A、40歳のときに次妻が生んだ子 B、60歳のときに次妻が生んだ子 C。
A,B,Cは腹違いの兄弟ですが、年齢差は子や孫ほど違います。3人目の妻がこのとき20歳だとすると2人めの子供と同級生(笑)となります。
現在の感覚から見て理解し難い古代の結婚話は、こういった視点が必要です。(母豊玉姫の妹玉依姫と結婚した鵜葺草葺不合命の話など)

 

上記のように「小椅君」=「天村雲命」は、ほぼ異論のない事実です。
ところがここで、通説において矛盾が発生します。

天村雲命・別名「天五多底イタて)命」は「射楯イタて)神」とも呼ばれる「五十猛命」(イタけるのみこと)と同神といわれます。
しかし、同神説を否定する方もおられます。

なぜならば、五十猛命の父は須佐之男だからです。
上のイメージ図で「鳥の一族」を示すとこうなります。

 

須佐之男火遠理命大穴牟遅命)→ 阿遅志貴高日子根神 → 神武天皇
      |
     →火照命天村雲命 阿多之小椅君(天村雲命)→ 阿比良比売

 

私の説のほうが、はるかにすんなり阿比良比売に繋がることが分かるでしょう。

ここからも、邇邇芸命とは実は須佐之男命のことである、と確認できます。


しかも、この後、神武天皇の本后となる「伊須気余理比売」は「阿遅志貴高日子根神」の弟「事代主命」の娘です。

いきなり書かれても全く意味不明でしょうが、時間をかけてよくよく見てゆけばそれが真実と理解できるでしょう。

 

火照命(天村雲命) 阿多之小椅君(天村雲命)に関しては、もう一つの見方も可能です。
この二人は「親子」で、「天村雲命」の名を引き継いだと見ることもできるからです。
称号名の引き継ぎは割と一般的なことであり、諸氏族の系図などでも確認できます。
阿波でいえば、戦国時代~江戸時代でも、阿波水軍を率いた森家の当主は、代々「森甚五兵衛」の名を襲名しました。

つまり、地位や立場・職能等を先代からそのまま引き継いだ場合、屋号同様に、その人物名をも、また継承するのです。


記紀』の人物関係をそのまま受け止めたとしても、海幸彦・山幸彦の父は天孫邇邇芸命ですから、天孫降臨を先導した小椅君(天村雲命)とは邇邇芸命の子(または孫)だった、ということなります。


時に、高皇産靈尊、眞床追衾(まとこおふすま)を以ちて、皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆いて降せしむ。 
皇孫、乃(すなわ)ち天盤座(あまのいはくら)を離れ、且(かつ)天八重雲を排し分け、稜威(いつ)の道(ち)別き道別きて、日向の襲(そ)の高千穗峯に天降き。
既にして皇孫の遊行(いでま)す状(かたち)は、則(すなわ)ち日(くしひ)の二上(ふたがみ)の天浮橋(あまのうきはし)より、立於浮渚在平處(うきじまりたひらにたたし)て
膂宍(そしし)の空國(そらくに)を頓丘(ひたお)より覓國(くにまぎ)ぎ行去(とおり)て、吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狹之碕(かささのさき)に到る。『紀』

 

二上の天浮橋」このあたりにも「天二上命」「小橋命」の命名が絡んでいるように感じます。
葦原中国へ統治者として天降った邇邇芸命は、「吾田」の長屋笠狭岬へと至り、そこで大山祇神の娘の木花開耶姫(このはなのさくやひめ)を娶りました。

この吾田にいた木花開耶姫(木花之佐久夜毘売)の本名を「神阿多都比売」(かむあたつひめ)『記』、神吾田津姫、神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)『紀』といいます。

 

須佐之男命が天降ったと見られる徳島の県南に「阿波國那賀郡 室比賣神社」という式内社が在ります。

御祭神は、木花開耶姫です。

 

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「阿津神社」への社名改称は明治3年ですが、江戸時代の『阿波志』『阿府志』にも「阿津神」「安津明神」とあることから、元々の名称だったとわかります。

『阿府志』では「安津」の「室津」誤字説が説かれていますが、それでは『阿波志』「阿津」の説明が付きません。


第一音の「ア」と「イ」は「異音同義」ですから、「アつ・アづ」は、元々この地が「イつ(イづ)」の一部だった、ということです。

木花之佐久夜毘売の別名の一つが「神吾田鹿葦津姫」(かむあたかあしつひめ)と書きました(一般にそう訓まれているから)が、実は「」の字の音読みは「」です。つまり本当の読みは(かむあたかイつひめ)です。

 

同じ阿波国那賀郡の古代郷名に「和泉郷」があります。これも「イつ(イづ)み」で、同じ「イツ」地名。後には「伊豆」と書かれたりもします。
もちろん、第一音を変音したときの地名が「アつみ」「アづみ」です。


阿曇・安曇・安積・安住等々を(あずみ)とするのは間違いで、「安津見」とも書かれるように(あづみ)なのです。
出雲イづ)を(イずも)、珍彦ウづひこ)を(ウずひこ)、とする間違いと同じで、これは単純に「づ」と「ず」の書き違いの問題ではなく、歴史を見誤る間違いです。


イツ・イヅは海沿いの地名(津は港)ですが、実は、アタとその元音イタも同じなのです。この海に近い県南部もまた「阿多」=「イた」だったということです。
これが上記、阿波国北部海岸地域の「イタの」郡に繋がります。


福岡の「板付」(いたづけ)、茨城の「潮来」(いたこ・いたく)も同じです。

福岡の板付は「数多くの板が流れ付いた海岸」という字義を当てはめただけの眠たい解釈がありますが、茨城では「イタ」は「潮」「海」という意味であるとしっかり伝承されています。
両県の「板付」「潮来」とも、同じ海岸地区に「那珂」(ナカ)地名があり、那珂川が流れ込んでいます。

ナカ・ナガを国名とするのは、阿波の「長国」のみで、これが後の「那賀郡」(ナカぐん・ナガのこおり)。


全国で合併により既に消滅したナカ・ナガ地名を含め、表記は「那珂」でも「那賀」でもよかった、発音は「ナカ」でも「ナガ」でもよかった、という地域が複数あります。
阿波国風土記逸文に残るように、阿波では「波」(海)を「ナ」と呼んでいました。


ではナカ・ナガの「カ・ガ」は何か?ということになりますが、これは「イカ・イガ」地名と同じで「~の下(もと)」「~側」という意味です。
全国の「イカ・イガ」地名は全て山側・山麓に位置します。


古事記中の「阿多」は現在、薩摩国の海に面した「阿多郡」のことと目されていますが、それ以外に記紀の物語と一致する要件はどの程度あるのでしょうか。

『紀』には「日向国吾田邑」とありますが、この「日向国」も景行天皇命名です。
鹿児島には「いおワールド」という水族館がありますが、魚をイオと呼ぶのは鹿児島と徳島県南だけだそうで、両地の関連を研究している方もおられます。

 

このように、ナカ・ナガ・イつ(ミ)・イづ(ミ)・アつ(ミ)・アづ(ミ)・イた(ミ)・アた(ミ)ともに「海に面した地名」という共通項があります。

渭津・逸見・伊豆・和泉・阿津・渥美・安曇・板・伊丹・阿多・熱海など)


話に切りがないので別の機会になりますが、他の近接地名、神社と御祭神などを絡めて追求すれば、全てのルーツが浮き上がってきます。

 

天村雲命の別名の一つは「五十猛」(イソたける)で、その別の読み方は「イタける」だといいます。
また、イソは「」に通じ、海幸彦~天村雲命後裔の上記度会氏の本姓は「磯部氏」です。
全てが海に繋がることが分かります。

 

葦原「中国」とは、海岸地方である「ナカ」国なのです。

一般に、阿波の歴史においては、漠然と北部の阿波国・南部の長国といわれますが、私はメインブログにおいて「北部まで含め阿波国の海岸地域は全て長国」であることを書きました。
このように阿波国においては、古代の板野郡から那賀郡にかけて、ナカ・イタ地名と、神名・人名で、密接な繋がりを確認できます。

 

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一般に「東征」と呼ばれる軍事侵攻前の、まだ若き狭野命(神武天皇)は、どこで伊比良姫を娶ったのでしょうか?

姫の父、もしくは歳の離れた兄、天村雲命は何処にいたのでしょうか?


天皇が本当に愛し感情のままに妻としたのは、伊比良姫だったと思います。

後に娶った伊須気余理比売は、親(祖父)が決めた許嫁(いいなづけ)のような存在。
祖の命により、跡取りを伊須気余理比売の子とする定めが生んだ悲劇が、二代天皇即位の物語に現れているのでしょう。

 

初代天皇の妃でありながら子孫が皇統に繋がらず、ひっそりと祀られるこの神社には「あなたの支えのおかげでこの国は建国されたのです」と感謝しつつ、参拝したいものです。