阿波の神

阿波の神

Awa Ancient History

伊比良咩神

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阿波の神、第一回は、伊比良咩神(いひらめのかみ)をご紹介します。

神社は「伊比良咩神社」(いひらめのかみのやしろ)。

先に解説した「式外社」の「国史見在社」に当たります。国史初見は、『日本三代実録貞観14年11月29日乙未条(872)

授、丹波国従四位下出雲神従四位上従五位下阿当護神従五位上正六位上奄我神従五位下
阿波国正六位上伊比良咩神。船尽比咩神並従五位下

珍しく、この時代から「比咩神」ではなく「咩神」表記だったことがわかります。(脱字でなければ)
つまり、姫神ではなく、女神、と強調した祭祀者の意図が感じられます。「伊比良之女神社」(いひらのめかみのやしろ)なのかもしれません。

御祭神は「阿比良比咩(あひらひめ)命

阿比良比売」は『古事記』の表記で、『日本書紀』では「吾平津媛」(あひらつひめ)と記されます。

初代神武天皇の御后です。

カテゴリー「神社と神道」に書きましたが、最初期の神社は御祭神の子孫が創建するものです。
逆を言えば、血縁もない赤の他人が何を持って子孫を差し置いて先人を神として祀れるというのでしょう。
崇神天皇の物語にあるように、それ以前の神祀りは祭祀者の居宅地内に設けられた祖廟で行うものでした。
祭政一致の祭りごとの基盤を整え、所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)と称された崇神天皇が「神社祭祀」という形態を生み出したのかもしれません。

 

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この女神の祭祀には注視するべき点が二つあります。
注視点「その壱」は、何故、この神社が阿波に鎮座するのか?、ということです。

記紀の通説解釈に従うならば、阿比良比売は日向か薩摩で祀られていなければおかしいはずです。
姫は、天皇即位(東征)前の伊波礼毘古命の妃だからです。
または、即位後、倭に移住した姫の一族が祭祀を始めたのならば、大和に神社が在るのが当然です。
仮に、元々これらの地に在った神を阿波に分祀したとしても、元社は必ずそこに残ります。

この神社は「日本一社」です。つまり、元から、この阿波国板野郡で祭祀が始められたのです。
よって、九世紀に朝廷から神階を授かっているのであり、元社があるならば、当然そちらが授階するでしょう。神武天皇の生い立ち、東征、建国には一切関わりないはずの四国に、何故、こんな神社が在るのでしょうか?

それでも唯一、強引に通説に合わせて考えるとすれば、皇統は大后・伊須気余理比売との子が継いでゆきますから、阿比良比売一族の子孫(たとえば岐須美美命の子孫)が阿波に移住し祭祀を始めたという可能性だけが残ります。

 


注視点「その弐」は、「比良比売」と「比良比売」、発音の違いです。

第一音の「ア」と「イ」が「異音同義」であるということは、既に『道は阿波より始まる』にて説明され、例えば「伊和大神」とは「阿波大神」であるとの指摘が為されています。

ここで引用された仙覚律師の『萬葉集註釈』の一文です。

① 天竺には「阿」字を発語の詞とす。我が朝には「伊」字を発語の詞とするなり。

② 伊は発語の詞なり。 
  梵語には「阿」字を以って発語の詞と為し、和語には「伊」字を以って発語の詞と為す。

※【万葉集註釈】. 鎌倉中期の万葉集の注釈書。10巻。仙覚著。文永6年(1269)成立。
  万葉集の本格的な注釈書として最初のもの。仙覚抄。

 

仙覚は、万葉集を掘り下げる研究の過程でこの事に気づき、理解を深めるために、わざわざ記したものと思われます。

古代史解釈に当てはめるときは「第一音のみがアとイの違いで、以下が同じ発音の神名・人名・地名は、指し示す実体が同じ(あるいは元をたどれば同じ)」と考えてみることです。それにより、今までは霧に霞んで見えなかった史実が徐々に姿を表します。

 

つまり、阿波国の「イひらひめ」は「アひらひめ」とも呼ばれた、あるいは後世そう呼ばれた、ということです。

古事記「神武記」には

坐日向時、娶阿多小椅君妹、名阿比良比売

とあります。阿比良比売は「阿多」之「小椅君」の「妹」(古代の妹は妻や近親女性のこと)です。日本書紀では

長而娶、日向国吾田邑、吾平津媛、為妃

です。

阿多之(アたの)小椅君の近親女性である、阿比良比売アひらひめ)は、元の音では、(イたの)(イひらひめ)であったのです。

伊比良咩神社の鎮座地は、阿波国「板野(イたの)郡」です。


阿多之小椅君(あたのをばしのきみ)に関しては、『神宮雑例集』(じんぐうぞうれいしゅう)、『皇字沙汰文』(こうのじさたぶみ)等に所載される『大同本紀』逸文に、以下の命名記があります。

 

又、皇御孫(すめみまの)命、度相神主等の先祖・天村雲命を召して、詔りたまわく

食国(おすくに)の水は未熟にて荒水(あらみず)に在りけり。 また神財(かむたから)、毛比(もひ)、二の物忌あり。故、御祖命(みおやのみこと)の御許(みもと)に参上りて申せ」と、詔りて、登らせ奉りき。

具(つぶさ)に由を申す時、御祖命詔りたまわく、

「雑(くさぐさ)に仕へ奉らむ政(まつりごと)は行い下して在れども、水取の政は遺(のこ)りて在り。 何れの神をか下し奉らんと思いめす間に、勇をして参上(まいのぼ)り来たる」

と、詔りて、

天忍石(あめのおしわ)の長井の水を取り持ち下り参り、八盛りに盛りて奉れ。その遺(のこ)りは、天忍水と云い、食国の水の於(うえ)に灌(そそ)ぎ和(あえ)て、御伴に天降り仕え奉る神等八十氏の諸人にも、その水を飲しめよ」と、詔りたまわく。

神財及び玉毛比等を授けられ給い参り下りて、献(たてまつ)る時、皇御孫命詔りたまわく「何れの道よりぞ参り上りしか」と、問い給(たま)う。

「申さく。大橋は皇太神、皇御孫命の天降りますを恐(かしこ)み、後の小橋よりなも参上りし」と、申せし時、皇御孫命詔りたまわく、

「後にも恐(かしこ)み仕へまつる事ぞ」と、詔りて、天村雲命天二登命(あめのふたのぼりのみこと)、後小橋命(のちのおばしのみこと)と云う三名を負い給いき。

 

上記のように、天村雲命は、伊勢豊受大神宮伊勢神宮外宮)の大神主度会氏の祖神であり、その『豊受大神宮禰宜補任(ぶにん))次第』にも、

天孫降臨の際、葦原の中國の水荒くして未だ熟せず飲料に不適なる故、勅命により天上に使し、天照大神の命を受け天忍石の長井の水を持ち帰り、天孫に上(たてまつ)った。
これにより、天孫邇邇芸命)より「二上(登)命」(あめのふたのぼりのみこと)、「後小椅命」(のちのおばしのみこと)の名を賜った、

と、ほぼ同様の記述があります。 ※参考『諸祭神名総覧』

 

 


日本書紀』にみえる同一人物「吾田君小橋」については「其の火闌降命(ほのすそりのみこと)は、即ち吾田君小橋等が本祖(もとつおや)也」とあります。


紀の別記は「火酢芹命」(ほすせりのみこと)、古事記では「火須勢理命」(ほすせりのみこと)ですが、紀に記される火闌降命の事績は『古事記』では火照命(海幸彦)のものとなっています。

つまり、兄弟で争った末、王位を継承した火遠理命(山幸彦)の孫である神武天皇に、王位を譲った火照命(海幸彦)の血を引く阿比良比売が嫁いだわけです。

 

※イメージ図(スマホでは崩れます)

邇邇芸命火遠理命(山幸彦) → 鵜葺草葺不合命  → 神武天皇
    |
     → 火照命海幸彦)→ 阿多之小椅君(天村雲命)→ 阿比良比売 


ちなみに、私はメインブログ「空と風」の「鳥の一族」において、火遠理命の実体は「大穴牟遅命」、火照命の実体は兄の一人「天村雲命」、父である邇邇芸命の実体は「須佐之男命」であると書きました。

記紀の記述を当てはめると矛盾が生じることが分かると思います。
しかし、これは記紀編纂時の混乱が生んだ誤解でしょう。編纂時代から見ても、海幸山幸の話は何世紀も昔の話です。
その伝承を初めて文字に起こすのです。海幸彦と天村雲命の「血の近さ」と「阿比良比売が天村雲命の妹」であるという情報を何とか強引にねじ込んだと見えます。
それが特異な「本祖」という表現に現れています。

また「妹」を「同世代または一世代後」と解釈すると上の系図のように考えることになります。
しかし、古代の「妹」は二世代離れる可能性もあるのです。当時は一夫多妻制だからです。
20歳のときに初婚で生まれた子 A、40歳のときに次妻が生んだ子 B、60歳のときに次妻が生んだ子 C。
A,B,Cは腹違いの兄弟ですが、年齢差は子や孫ほど違います。3人目の妻がこのとき20歳だとすると2人めの子供と同級生(笑)となります。
現在の感覚から見て理解し難い古代の結婚話は、こういった視点が必要です。(母豊玉姫の妹玉依姫と結婚した鵜葺草葺不合命の話など)

 

上記のように「小椅君」=「天村雲命」は、ほぼ異論のない事実です。
ところがここで、通説において矛盾が発生します。

天村雲命・別名「天五多底イタて)命」は「射楯イタて)神」とも呼ばれる「五十猛命」(イタけるのみこと)と同神といわれます。
しかし、同神説を否定する方もおられます。

なぜならば、五十猛命の父は須佐之男だからです。
上のイメージ図で「鳥の一族」を示すとこうなります。

 

須佐之男火遠理命大穴牟遅命)→ 阿遅志貴高日子根神 → 神武天皇
      |
     →火照命天村雲命 阿多之小椅君(天村雲命)→ 阿比良比売

 

私の説のほうが、はるかにすんなり阿比良比売に繋がることが分かるでしょう。

ここからも、邇邇芸命とは実は須佐之男命のことである、と確認できます。


しかも、この後、神武天皇の本后となる「伊須気余理比売」は「阿遅志貴高日子根神」の弟「事代主命」の娘です。

いきなり書かれても全く意味不明でしょうが、時間をかけてよくよく見てゆけばそれが真実と理解できるでしょう。

 

火照命(天村雲命) 阿多之小椅君(天村雲命)に関しては、もう一つの見方も可能です。
この二人は「親子」で、「天村雲命」の名を引き継いだと見ることもできるからです。
称号名の引き継ぎは割と一般的なことであり、諸氏族の系図などでも確認できます。
阿波でいえば、戦国時代~江戸時代でも、阿波水軍を率いた森家の当主は、代々「森甚五兵衛」の名を襲名しました。

つまり、地位や立場・職能等を先代からそのまま引き継いだ場合、屋号同様に、その人物名をも、また継承するのです。


記紀』の人物関係をそのまま受け止めたとしても、海幸彦・山幸彦の父は天孫邇邇芸命ですから、天孫降臨を先導した小椅君(天村雲命)とは邇邇芸命の子(または孫)だった、ということなります。


時に、高皇産靈尊、眞床追衾(まとこおふすま)を以ちて、皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆いて降せしむ。 
皇孫、乃(すなわ)ち天盤座(あまのいはくら)を離れ、且(かつ)天八重雲を排し分け、稜威(いつ)の道(ち)別き道別きて、日向の襲(そ)の高千穗峯に天降き。
既にして皇孫の遊行(いでま)す状(かたち)は、則(すなわ)ち日(くしひ)の二上(ふたがみ)の天浮橋(あまのうきはし)より、立於浮渚在平處(うきじまりたひらにたたし)て
膂宍(そしし)の空國(そらくに)を頓丘(ひたお)より覓國(くにまぎ)ぎ行去(とおり)て、吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狹之碕(かささのさき)に到る。『紀』

 

二上の天浮橋」このあたりにも「天二上命」「小橋命」の命名が絡んでいるように感じます。
葦原中国へ統治者として天降った邇邇芸命は、「吾田」の長屋笠狭岬へと至り、そこで大山祇神の娘の木花開耶姫(このはなのさくやひめ)を娶りました。

この吾田にいた木花開耶姫(木花之佐久夜毘売)の本名を「神阿多都比売」(かむあたつひめ)『記』、神吾田津姫、神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)『紀』といいます。

 

須佐之男命が天降ったと見られる徳島の県南に「阿波國那賀郡 室比賣神社」という式内社が在ります。

御祭神は、木花開耶姫です。

 

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「阿津神社」への社名改称は明治3年ですが、江戸時代の『阿波志』『阿府志』にも「阿津神」「安津明神」とあることから、元々の名称だったとわかります。

『阿府志』では「安津」の「室津」誤字説が説かれていますが、それでは『阿波志』「阿津」の説明が付きません。


第一音の「ア」と「イ」は「異音同義」ですから、「アつ・アづ」は、元々この地が「イつ(イづ)」の一部だった、ということです。

木花之佐久夜毘売の別名の一つが「神吾田鹿葦津姫」(かむあたかあしつひめ)と書きました(一般にそう訓まれているから)が、実は「」の字の音読みは「」です。つまり本当の読みは(かむあたかイつひめ)です。

 

同じ阿波国那賀郡の古代郷名に「和泉郷」があります。これも「イつ(イづ)み」で、同じ「イツ」地名。後には「伊豆」と書かれたりもします。
もちろん、第一音を変音したときの地名が「アつみ」「アづみ」です。


阿曇・安曇・安積・安住等々を(あずみ)とするのは間違いで、「安津見」とも書かれるように(あづみ)なのです。
出雲イづ)を(イずも)、珍彦ウづひこ)を(ウずひこ)、とする間違いと同じで、これは単純に「づ」と「ず」の書き違いの問題ではなく、歴史を見誤る間違いです。


イツ・イヅは海沿いの地名(津は港)ですが、実は、アタとその元音イタも同じなのです。この海に近い県南部もまた「阿多」=「イた」だったということです。
これが上記、阿波国北部海岸地域の「イタの」郡に繋がります。


福岡の「板付」(いたづけ)、茨城の「潮来」(いたこ・いたく)も同じです。

福岡の板付は「数多くの板が流れ付いた海岸」という字義を当てはめただけの眠たい解釈がありますが、茨城では「イタ」は「潮」「海」という意味であるとしっかり伝承されています。
両県の「板付」「潮来」とも、同じ海岸地区に「那珂」(ナカ)地名があり、那珂川が流れ込んでいます。

ナカ・ナガを国名とするのは、阿波の「長国」のみで、これが後の「那賀郡」(ナカぐん・ナガのこおり)。


全国で合併により既に消滅したナカ・ナガ地名を含め、表記は「那珂」でも「那賀」でもよかった、発音は「ナカ」でも「ナガ」でもよかった、という地域が複数あります。
阿波国風土記逸文に残るように、阿波では「波」(海)を「ナ」と呼んでいました。


ではナカ・ナガの「カ・ガ」は何か?ということになりますが、これは「イカ・イガ」地名と同じで「~の下(もと)」「~側」という意味です。
全国の「イカ・イガ」地名は全て山側・山麓に位置します。


古事記中の「阿多」は現在、薩摩国の海に面した「阿多郡」のことと目されていますが、それ以外に記紀の物語と一致する要件はどの程度あるのでしょうか。

『紀』には「日向国吾田邑」とありますが、この「日向国」も景行天皇命名です。
鹿児島には「いおワールド」という水族館がありますが、魚をイオと呼ぶのは鹿児島と徳島県南だけだそうで、両地の関連を研究している方もおられます。

 

このように、ナカ・ナガ・イつ(ミ)・イづ(ミ)・アつ(ミ)・アづ(ミ)・イた(ミ)・アた(ミ)ともに「海に面した地名」という共通項があります。

渭津・逸見・伊豆・和泉・阿津・渥美・安曇・板・伊丹・阿多・熱海など)


話に切りがないので別の機会になりますが、他の近接地名、神社と御祭神などを絡めて追求すれば、全てのルーツが浮き上がってきます。

 

天村雲命の別名の一つは「五十猛」(イソたける)で、その別の読み方は「イタける」だといいます。
また、イソは「」に通じ、海幸彦~天村雲命後裔の上記度会氏の本姓は「磯部氏」です。
全てが海に繋がることが分かります。

 

葦原「中国」とは、海岸地方である「ナカ」国なのです。

一般に、阿波の歴史においては、漠然と北部の阿波国・南部の長国といわれますが、私はメインブログにおいて「北部まで含め阿波国の海岸地域は全て長国」であることを書きました。
このように阿波国においては、古代の板野郡から那賀郡にかけて、ナカ・イタ地名と、神名・人名で、密接な繋がりを確認できます。

 

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一般に「東征」と呼ばれる軍事侵攻前の、まだ若き狭野命(神武天皇)は、どこで伊比良姫を娶ったのでしょうか?

姫の父、もしくは歳の離れた兄、天村雲命は何処にいたのでしょうか?


天皇が本当に愛し感情のままに妻としたのは、伊比良姫だったと思います。

後に娶った伊須気余理比売は、親(祖父)が決めた許嫁(いいなづけ)のような存在。
祖の命により、跡取りを伊須気余理比売の子とする定めが生んだ悲劇が、二代天皇即位の物語に現れているのでしょう。

 

初代天皇の妃でありながら子孫が皇統に繋がらず、ひっそりと祀られるこの神社には「あなたの支えのおかげでこの国は建国されたのです」と感謝しつつ、参拝したいものです。

 

 

神道とは何か

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天照大神と天津日高日子番能邇邇芸命

神道(しんとう)は、日本古来の宗教ですが、常に「はたして宗教と呼べるのか」というような意見があります。この場合は「宗教」の定義にもよりますが、一般的な宗教と比較したとき、決定的に違うのは、その起源や開祖が不明で教義経典が無いという点です。しかし、神と人と人の死の関係を形づくる神道は、紛うことなき宗教です。

神道の特徴として、よく言われるのが「アニミズム宗教」という表現です。
「八百万(やおよろず)の神」、古事記神産み神話に登場する様々な「自然神」の姿から「万物に宿る精霊のような神」の姿を神道の神とする論理は分からないでもありません。神社本庁のHPを見ても、

 

神道は、日本人の暮らしの中から生まれた信仰といえます

自然現象に神々の働きを感知しました

自然物を神宿るものとしてまつりました

神道の神々は、海の神、山の神、風の神のような自然物や自然現象を司る神々、衣食住や生業を司る神々、国土開拓の神々などで・・

国家や郷土のために尽くした偉人や、子孫の行く末を見守る祖先の御霊も、神として祀られました

 

と、記されています。
しかし、アニミズム神道の本質ではありません。また、神社本庁は、 

 

このように、日本列島の各地で発生した神々への信仰は、大和朝廷による国土統一にともない、形を整えてゆきました。

 

と、巷間よく言われるように「神道は日本各地で多発的に発生した宗教」と書きますが、これも大いに疑問です。これは「各地の自然に対する信仰が大元」という原理の解説ですが、本当にそう思っているのでしょうか? 私は、神道関係者の単なる怠慢だと思っています。

宗教には必ずルーツがあります。しかし神道の場合、その追求は皇室のルーツや日本国の成り立ちに踏み込むことになるため、とても手に負えず、最初から逃げて、このような説明でお茶を濁しているのです。

 

神道の本質は「祖霊祭祀」です。

そしてその広がりは「布教」ではなく「分祀」です。

多発的自然発生などありえません。あるいは上の解説のように、多発的な各地の宗教が朝廷の力の拡大に伴って、いったん神道に収斂され、改めて全国に拡散されたなどという話は、牽強付会の説といえるでしょう。

 

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いったい全国の神社で、どのくらい精霊のような自然神が祀られていますか? ほとんどは人格神です。そして、太陽の神、水の神、山の神、風の神、などと言っても、実態は自然の神ではなく、人物を神格化したときの表現です。 自然神は、あくまで古事記の「神産み神話」の中で登場する万物神であって、実際に後世の人々が祀るのは「過去に実在した人物」です。

日本の神話は「全て創作」という研究者もいます。一方で「実在した人物と史実の神話化」だとする者もいます。前者の指摘も、もっともな部分はありますが、その間違いのほとんどは「神話の比定地の誤認」が原因です。研究の前段として、それらの比定地の検証など誰もやっていないのです。

後者の例で言えば、「天照大神」も「高天原」時代の王位に就いた人物の神格化、となりますが、であれば、実在した人物に「太陽神」の神格を重ねたということになります。

同じように、たとえば「風の神」といっても、「風の精」のような自然神を祀っているのではありません。風神の神格を重ねるにふさわしい人物を神としているのです。現代の感覚で、ロマンチックな風の精霊を想像しても意味がありません。古代の日本人が「風の神」に何を見るか?

一つには「交易の神」です。古代国家の経済基盤は交易が支えており、その輸送手段はほとんど船です。風が吹かなくても吹き過ぎても困るのです。いわゆる魏志倭人伝にも「持衰」(じさい)という役目が紹介されています。

 

その行(倭國一行)来たり。海を渡り中國に詣(いた)るには、恆(つね)に使者の一人をして、頭を梳(くしけず)らず、蟣蝨(きしつ)を去らず、衣服は垢汚、肉を食せず、婦人を近づけず、喪人(そうじん)の如くせしむ。これを名づけて持衰(じさい)と為す。

もし、行(一行)吉善(きつぜん)なれば、共にその生口、財物を顧し、もし、疾病に罹(かか)り、暴害に遇えば、すなわちこれを殺さんと欲す。その持衰が謹(つつし)まずと云えばなり。

 

渡航にあたり、航行がうまくゆけば財産を得、海が荒れたり疫病が発生し失敗すれば、責任を問われ殺される。この結果は持衰一人の「行い」「浄・不浄」に左右されるためである、と考えられれいました。

このように「人間」のある種の力が「運」や「天候」を左右するという観念の中では「風の強弱や吹くタイミング」に影響を与えるほどの「人物の想定」がなされます。

 

もう一つは、風力という物理的な力に対する影響力ではなく、宗教的霊力に対する関わりです。この場合の風は「禊ぎ祓い」の「祓の神」という神道の宗教的特徴の重要な神であると考えることができます。この場合は「祭祀氏族」の人物などが想定されます。

さらに言えば、祭祀に関わる神として、忘れてはならない存在が「水の神」です。これもまた自然神と捉えられがちですが、水神は「禊の神」であると同時に、人が生きてゆくために最も必要な「水」を司る「命の神」であり、「食の神」であり、ある意味怒らせると最も怖い「降雨」や「水難・水害」といった自然現象を統べる神でもあります。この水神は、古代史の解明にも最も重要なキーとなる存在であり、そのためまた改めて考察することとします。

 

 

このブログでは、記紀万葉集などから、少しずつ 宗教的シーンを抜き出して「神道がいかなる宗教であるか」を読者の方々と一緒に見ていこうと考えています。 

今回は、まず一回目として、古事記上巻で最も早く(厳密にはそれ以前にもあるが)述べられる宗教的シーンを切り取ってみます。

 

 此之鏡者、專爲我御魂而、如拜吾前、伊都岐奉。

 

 此れの鏡は、専(もは)ら我が御魂(みたま)として、

 吾(われ)が前(まへ)を拝(いつ)くが如(ごと)伊都岐奉(いつきまつ)れ。

 

天照大神が、皇孫の天孫降臨際し、邇邇芸命と五伴緒に下した神勅です。

前回書いた「依代」の登場です。

 

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天照大神は、授けた「鏡」を「自分の依代として」斎き祀れ、と詔します。

これは「神話」として描いているがゆえの表現であり、つまりは「天照大神亡き後、天照大神依代として、この鏡が祀り続けられる」という事実を反映させた物語のシーンなのです。

 

依代を、祖神として、子孫が祀る」という、神道の中核である「祖霊祭祀」が、まず最初に描かれています。

事実、物語の通り、天照大神の御霊は、皇御孫(すめみま)が代々引き継ぎ、第十代崇神天皇の御代まで、王家内の祖廟で祀られていたのでした。

 

 

 

仏教は佛教か?

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神道」カテゴリーで何故「仏教」なのか? と思われるでしょうが、ここでは仏教の説明ではなく「日本人と神道の宗教観」を説明するために、仏教の宗教観を例に取ります。もちろん、タイトルにある「仏教」と「佛教」は、新字・旧字の違いだけなのですが、「現在の日本仏教」と「釈迦が説いたオリジナルの佛教」の違いを語るイメージとして使っています。

よく、日本人は無宗教だとか、宗教が嫌いだと言われます。しかし、それは多くの日本人が特定の宗教に縛られないからであり、実際には、生涯に渡ってかなり宗教的な思考をし行動に移します。その自覚がないだけです。たとえば、有名なところでは「言霊」があります。誰に教育されたわけでもないのに、殆どの日本人は「人が発した言葉には、その内容を実現してしまう霊力がある」と「無意識に」信じています。結婚式で、離婚をはじめ家庭の不幸に関わる言葉を発してはいけないとか、受験生に不合格を連想させる言葉を掛けてはいけないという「縁起でもないことを言うな」的なマナーじみた態度は、誰もが迷信と自覚しながらも、ある程度信じていることです。実際にそのような言葉を発したならば、当事者は真剣に怒るし、またその態度を見て不思議に思う日本人はいません。

 

日本人の「無自覚な宗教観」といえば、最大のものが「祖霊祭祀」に関わるものだと思います。「祖霊信仰」は決して世界に不変のものではありません。それどころか、日本人が、それを「仏教的観念」だと思いこんでいる祖霊信仰自体、もともとの佛教にはないものばかりです。

 日本人の雑談レベルの宗教的な会話を聞いていると、「今度生まれ変わったらどうなりたい」とか「前世ではこうだったに違いない」というような話と、「亡くなった両親や祖父母が見ている・そばにいてくれている」という話がよく出てきます。

この矛盾をほとんどの人は自覚していません。前者は「輪廻転生」で本来の佛教の死生観です。人は死ぬと49日間の「中陰」期間を経て、次の世界へ転生します。つまり、後者の会話のように「そばにはいない」のです。

自分も生まれ変わりの途中であるはずなので、お盆のたびに前世に帰ったり、来世の自分が戻ってきたりしていなければおかしいわけですが、誰もそんな経験はしていないはずです。

宗派によっては、お盆のときに戻ってくる家族や先祖は「成仏」しているのだ。つまり、次の世界へ転生したのではなく「極楽」「浄土」に生まれ変わっているから時々戻ってこれるのだ、と解釈している人も多いのでしょう。

しかし、自分を含め今この世に生きている人々はみな解脱に失敗した者たちで、自分たちが見送ったり代々墓参りしてきたご先祖はみな、例外なく極楽へ征くことに成功した人達、というかなり強引な論理で思考していることになります。

 

先祖の魂が戻ってくる、という「お盆」自体、元々の佛教にはなかったものです。これは、元々各地にあった祖霊信仰と佛教が結びついてできた行事で、宗教の定義の中心に死生観があるとすれば、これはもはや仏教とは呼べないほどの質的変更なのです。

「各地」というのは、まず佛教が中国に入った後、間違いなく「儒教」の影響を受けて変貌したということと、その中国佛教が日本へ入ったときにまた、日本の祖霊信仰が結びついた、ということです。強烈な拒絶反応がありながらも佛教が受け入れられた理由の核心は、神道との「祖霊信仰の同一性」だったといえます。

 

「神と人」との関わりだけを説く宗教には「死者と人」の関係を繋ぐ祀りなどありません。人が死後もなお生者とつながりを持つ宗教観のほうが少数派といえます。では何故、日本人の宗教観は中国佛教が入る前から祖霊信仰だったのか? ほとんどの人は同じ東アジアの偶然だと考えるでしょう。私は、仏教伝来の何世紀も前に、すでに日本人は儒教の影響を受けていた、と考えています。

はっきり言えば、原初の神道は、日本古来の宗教が、伝来した儒教の影響を受けて形作られたハイブリッド宗教です。

 

仏教といえば、映画やドラマでよく見るシーンに、登場人物がお墓や仏壇の遺影や位牌に向かって話しかける、というものがあります。 実はお墓や墓参り、位牌なども全て儒教由来で、仏教には本来なかったものです。

いったい何故、こんなことを日本人が行うのかといえば、これらを全て「依代」と見なしているからです。

依代(よりしろ)とは「神霊が依りつく対象物」のことで、上の例で言えば(儒教上の)「位牌」がまさにこれに当たります。ご存知のように、日本では、山や岩や大木が神の依代とされることもあります。

 

日本人は、写真や生前身につけていたもの、大事にしていたものなどにも故人の霊が宿っているかのように感じ大切に扱います。その中でも代表的なものが「骨」です。

海外戦死者の遺骨問題や、また様々な事件・事故・災害のときにも「遺骨を持ち帰る」ことを何より大事に考えます。骨を自宅に返し、墓に入れて、遺族・子孫が祀ることが特段大事なことなのです。骨を依代と考えない宗教観ではこんなにも遺骨に執着しません。インドでも、死者は既に転生済みなので「抜け殻でしか無い遺体」は焼いて全て川に流していました。

 

この「骨を依代とする」観念も儒教から来ています。孔子の出現よりもはるか昔、出現した頃の文字(漢字の原型)の解読から、元は先祖の髑髏(しゃれこうべ)を依代として祭壇に置き、供え物をして祀っていたことが分かっています。この骸骨が後の位牌に変化します。

このことからも分かるように、依代とは本来「祭り・祀り」のために設置するものです。何の祭りかといえば「招魂儀礼」です。子孫が先祖や故人の霊を呼び寄せ接触を持つのです。これが後に「お盆」に結びつき、仏壇に話しかける遺族の姿になるのです。

 

儒教では人間は「魂魄」(こんぱく)で形成されており、この魂(こん)と魄(はく)の分離が「死」であると考えます。人の死後、「魂は天へ昇り、魄は地へ帰る」とされ、その後は、魂を「神」(しん)、魄を「鬼」(き)とも呼びます。

「魂」(こん)は「肝」(かん)と結びつき、肝とはその中にある「心」(しん)のことでもあり、心(しん)が神(しん)となります。

魂の偏である「云」(うん)は、雲(うん)と同じで形のないもの、旁の「鬼」は、頭にまだ少し毛が残った白骨死体の象形文字です。

魄の偏である「白」(はく)は、骨のことで、そのまま白骨死体を意味します。

また、「神・鬼」に関しては、気が動く状態を表す「伸」(しん)と「神」(しん)が、魄が「帰」(き)する状態と「鬼」(き)が結びついたとも云われています。

※このように、初期の漢字は、宗教文字に限らず、字形が違っても発音の同じ字は「同義」または「原義に関連がある」ものが大半です。

 

 「魂魄を呼び戻す」のが「招魂儀礼」で、魂を呼ぶために祭壇に香を焚き、魄を呼ぶため地に酒を撒きます。

 

この招魂儀礼が、いわゆる邪馬台国卑弥呼が行ったとされる

「鬼道」(三国志

「神鬼道」(後漢書)です。

中国正史や記紀を見れば分かるように、占いに関しては、古代の日本宗教では「卜占」が中心でしたが(中国でも同じ)、その後「託宣」に変化します。

 

世界一般的な「神」の概念は、中国では「天」に近く、中国での「神」は上に書いたように(天と人の間に存する)死後の人の姿です。

日本では、観念上この両者の「神」が一体となり、優れた人物が、その死後「神」となり、良くも悪くも現世に様々な影響を及ぼす、と考えるようになった、その経緯をここに見ることができます。

 

 

分祀が意味するもの

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靖国神社(HPより)

神道には「分祀(分霊)」という観念があります。

社会的にこの言葉が浸透したのは、靖国神社における外交問題上の「A級戦犯分祀」問題でした。特定アジア諸国に対する配慮として、A級戦犯の御霊だけを靖国から分祀することで解決を図ろうという意見がありました。

このとき、靖国神社や一部の知識人から「神道での分霊とは、例えればロウソクの炎を別のロウソクに移すようなもので、御霊が他所に移動し元の社から無くなる如きのものではない」との説明がなされました。

 

このあと、また詳しく書きますが、神道の本質は「祖霊祭祀」です。祖霊の中でも格別の存在を「神」として祀ります。当然のこと、祀る主体は「その神の子孫」です。

これが、本来の「氏神」「氏子」の関係です。

あなたの家で、先祖代々、特に優れた祖先を家の守り神「祖神」として祀り続けていたとします。家が遠方に引っ越すことになったとき、移住先でも当然その神を祀るのです。ところが、あなたの家はある一族の一家にすぎず、祀るのは「一族全体の祖神」であり、その神を祀る社が特別に設けられていたときは、家中の祖廟を移せば済むという話にはなりません。

その社の神を移住先に分霊することになるのです。これが「分霊しても、その神霊は元の社に留まり続ける」という意味です。

 

崇神天皇のエピソードにもあるように、祖神は本来、居宅内に設けた「祖廟」で祀るもの。わざわざ別の場所に神祀りの社を設置するのはむしろ特別なことだったのです。

その神の偉力が絶大であるがゆえ、共通の場所で、一族全体でお祀りするため、もしくは「神がそれを望むため」のことです。

この「特別な場所」で祭祀に専念する家柄も、当然、その神の子孫家の一つです。

 

崇神天皇の場合は、皇女豐鍬入姬命と渟名城入姬命に、天照大神と倭大國魂神の祭祀を託しました。ほとんどの人がスルーしていますが、このことから天照大神だけではなく倭大國魂神もまた皇室の祖神であることがわかるのです。この後、祟りを為した大物主神自身が自分を祀る人物として、子孫の大田々根子を指名します。ここでもまた神と人との祭祀関係が浮き彫りになります。

 

都が置かれたために、畿内には数多くの神社が鎮座しますが、それは各地から上京した一族が、それぞれの故郷から祖神を分祀したからでもあります。

時代が下り、分祀が増え、あるときは祀り続ける家系が途絶え、やがて血縁にないものが神事を行うようになります。現代では職業神職が大勢いらっしゃいます。

 

神社の鎮座地と地域の人々が「氏神産土神)・氏子」の関係になったのが新しい時代の神と人との関係ですが、当然のこと、古代史を振り返るときには本来の「神の姿」にリセットした上で、歴史の物語を見つめなければなりません。

 

 

 

阿波国の式内社

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美馬市映像アーカイブ 式内社 伊射奈美神社

阿波国式内社は、50座で、大社3座・小社47座となっています。


◎ 板野郡 4座(大1座・小3座)

大麻比古神社名神大
鹿江比売神
宇志比古神社
岡上神社


◎ 阿波郡 2座(並小)

建布都神
事代主神


美馬郡 12座(並小)

鴨神社
田寸神社
横田神社
伊射奈美神
建神社
天椅立神社
天都賀佐毘古神社
八十子神社
弥都波能売神
波尓移麻比弥神
倭大国玉神大国敷神社二座


◎ 麻殖郡 8座(大1座・小7座)

忌部神社名神大月次新嘗・或号麻殖神・或号天日鷲神
天村雲神伊自波夜比売神社二座
伊加加志神
天水沼間比古神天水塞比売神社二座
秘羽目神足浜目門比売神社二座


◎ 名方郡 9座(大1座・小8座)

天石門別八倉比売神社(大月次新嘗)
天石門別豊玉比売神
麻能等比古神社
和多都美豊玉比売神
大御和神
天佐自能和気神社
御間都比古神社
多祁御奈刀祢神社
意富門麻比売神


勝浦郡 8座(並小)

勝占神社
事代主神
山方比古神社
宇母理比古神社
阿佐多知比古神社
速雨神社
御県神社
建島女祖命神社


◎ 那賀郡 7座(並小)

和耶神社
宇奈為神社
和奈佐意富曽神社
比売神
比売神
八桙神社
賀志波比売神


一般名詞である「神社」(じんじゃ)は、本来(かみのやしろ)です。

八百万の神々の社を総称して、神社と呼ぶわけです。

現在一般に、神社は「◯◯+神社」と認識されていますが、本来は「「◯◯神+社」です。つまり、「◯◯」の部分が御祭神名であるのが神社名としての本来の形なのです。

たとえば、麻植郡忌部神社は、別名「麻殖神」とも「天日鷲神」とも号す、と延喜式に記されています。日本書紀にも登場する御神名としての社名は「天日鷲神+社」で「天日鷲神社」(あめのひわしのかみノやしろ)であり、別名のひとつが「忌部神」であると確認できます。

 

神社には「分祀」という観念がありますから、たとえば、「遷座された先の地名」が社名に冠されたりするのは、元社との区別または時代の新しい神社であることが見て取れるわけです。

式内社の中にも同じ御祭神が祀られた社が複数存在します。当たり前のことですが、同じ神が全国の別々の地方で個別独自に祀られ始めるなどということはないのです。つまり、式内社の中にも「元(本)社」と「分社」の関係があります。

すなわち10世紀以前に、日本のどこかで祀られていた神が、主に人の移動(正確にはその神の子孫の移動)にともなって移住先に分祀されることにより、同神の複数地域での祭祀が起こるのです。

 

ただし、多くの神々、特に神道の中心的な神々は、上の例のように、尊称を含め複数の別名を持つことが一般的であるため、同神を別神と勘違いすることがあります。

式内社」の解説で「御祭神が明確でない神社が多い」と書いたのも、このためです。

阿波国内においてさえ、「事代主神社」とあれば、誰がどう見ても、御祭神は古事記にも登場する大国主命の子「事代主神」なのですが、「大麻比古神社」となると「大麻比古神」とはいったいどのような神様か?ということになり、異論が続出することになります。

大麻比古神」も「事代主神」の「別名の一つ」なのです。事代主神には、他にも複数の別名があります。これがわからない限り、日本の古代史の謎は解けません。


阿波国式内社を見るとき、他国と比べて御祭神が明瞭な神社が多いことに気づきます。

これは、式内社の中でも鎮座年代が古いことを示しています。

その中には、記紀にもそのままの名で登場する神話の中心的な神々が鎮座しています。

これは、驚くべきことなのです。

さらには、これらの有名な神々を祀る式内社が、阿波国のみの祭祀となっている例が複数あります。

この意味さえ理解できない人々が、神道や歴史を語っているのが現状です。

このブログでは、これらの神道祭祀の本質的な視点から阿波国の神々を紹介したいと考えています。